「重いもの持って肘痛めちゃって…」とオッさんがくれた湿布を貼った腕を見せたら、
「私もな、昔重いもの持って、肩からビーンてなってな、痛痛かってん。」
「そうなん?」
といった具合で、昔から母とはこんな感じの会話になる。母曰く、自分もなったことあるから大丈夫だと言いたいみたいである。
話し始めるととまらず、人が話したことはよく覚えているみたいだが、話の8割は文句が多い。よくよく聞いていると、話の最後には「絶対そうやわ」「そうなんちゃう」「そうらしい」とか、母の思いや関心が話の中心で、事実関係は定かではない話ばかり。
私と言えば、話半分で聞く癖がつき、自分の話をすることは少なくなり、感情を表に出すことはなく、口数少なく育った。
頑張り屋さんで、姉御肌な母から教えられることもたくさんあるが、人の話を「聴く」ということはどういうことかも教えてもらった気がする。
「重いものをもって肘が痛いねん。」
「シップあるけど貼っといたら。」と言って湿布をくれる。
「ありがとう。」
母とオッさんとの違い。
それは、痛いことを訴えている私の言葉を受け止めているかどうかだと思う。
杓子定規に心配してほしいわけでも、かまってほしくて話しているわけでもなく、ただ痛いという事実を受け取ってもらえた経験。
オッさんには私もペラりんちょペラペラりんちょしゃべることができる。
私もそんなふうに話を聴ける人になりたいと思う。
産業カウンセラーの勉強をしていた時に出会った詩↓
『-私の話を聞いてください-』
私の話を聞いてください、と頼むと
あなたは助言を始めます。
私はそんなことを望んではいないのです。
私の話を聞いてください、と頼むと
あなたはその理由について話し始めます。
申し訳ないとは思いつつ、
私は不愉快になってしまいます。
私の話を聞いてください、と頼むと
あなたは何とかして私の悩みを
解決しなければならないという気になります。
おかしなことに、それは私の気持ちに
反するのです。
祈ることに慰めを見いだす人がいるのは
そのためでしょうか。
神は無言だからです。
助言したり、調整しようとはしません。
神は聞くだけで悩みの解決は自分に
まかせてくれます。
だからあなたもどうか
私の話を聞いてください。
話をしたかったら、私が話し終えるまで
少しだけ待ってください。
そうすれば私は必ずあなたの話に耳を傾けます。
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